著者:歸山則之(聞き書き)/金井貞真(語り)
自費出版
定価:2000円(税込)
敗戦後約60万の同胞と共に「捕虜」として5年間シベリアに抑留された後、1950年7月、今度は建国間もない中国に「戦犯」として引き渡され「撫順戦犯管理所」に6年間拘束され、56年の特別軍事法廷で「起訴免除」の寛大措置を受け帰国を許されたある将校の体験の聴き取りである。
体験を語る金井貞直さんは1919年山梨県生まれ、農林省に在職中に徴兵され、幹部候補生で将校となる。42年59師団編成とともに中国山東省に出征、その後北朝鮮で敗戦を迎えた。この59師団は最も多くの中国戦犯を出した兵団である。奪う、焼く、殺すの所謂「三光作戦」や、中国人を使った「実的刺突」、そして強制連行や小麦、綿花、石炭などの略奪も行った。
抑留されたシベリアで金井さんは思想改造や強制労働に一切応じず、他の4人と共に「反動将校」のレッテルを貼られた。徹底的にシベリア民主運動に逆らった数少ない日本人のひとりである。その抵抗のバネとなったのは263人もの部下の犠牲であった。ソ連の言いなりになり負けを認めることはこの部下の死を無にすることと考えた。そして、最後まで付けていた将校の「襟章」の裏に、部下の死亡日と死因のメモを隠し、先に帰国する仲間に託した。
撫順戦犯管理所に戦犯として移管された後も金井さんの態度は変わらなかった。管理所にはスティーム暖房が入り大浴場もあり、中国人職員がコウリャン飯を1日2食しか食べられない状況の中で戦犯たちに白米を食べさせ、何の制裁も復讐も強制労働もなく、人道的扱いを受けていた。彼らは余った飯で麻雀牌を作ったり碁石などを作り遊んでいても何も言われなかった。
しかし、まだ金井さんには侵略や加害の認識はまったくなく「我々が中国や満州でいいことをしてやったから恩義を感じ感謝しているのだろう」と考えていた。
管理所は「坦白(自白)」を求めたが、既に調査済みの証拠が手元にあっても、決して証拠を突きつけ自白を強要する事はなく自ら吐露するまで待った。
3、4年過ぎた頃から、有り余る時間の中で彼らは次々と自らの過去を振り返り「認罪」をしていった。しかし当初、そこには算盤勘定や損得を考えての嘘の自白などもあったが、管理所は過大でも過小でも認めず事実だけを書くように求めた。
しかし、金井さんは相変わらず反抗していた。シベリア民主運動の活動家たちとの確執はここでも継続していたのである。認罪については、将校としての責任はあるものの、自らは人も撃たず斬首もしていないと思っていた。ある日、部下が命令で「実的刺突」したことを自白した、と金井さんに詫びた。
また、金井さん自身もある集落掃討作戦で「家だけは焼かないで」と懇願する老婆の事を思い出した。その時、金井さんは軍刀を掴む老婆を長靴で蹴り倒し、転倒した老婆はもの凄い形相で睨みけた。逆上した金井さんは部下に「撃て!」と命じたのだった。
長い葛藤の末、金井さんもついに認罪に至る。そのキッカケは李徳全女史の来日により、抑留者名簿が公開され、家族と戦犯たちとの文通が可能になったことであった。婚約状況にあった現在の奥さんから手紙と共に「こけし」が届き、それから身内・家族の存在や大切さがよみがえったのである。金井さんは自分が撃たせた老婆やその家族(息子の結婚を控えていた)に思いを馳せ、彼らの立場で考えることで自分の罪の深さがようやく解ったのである。
当初、金井さんは老婆を自分が撃ったことにし、自ら手を下したとする事が認罪だと思っていた。しかし、それは間違いで「命令した方にこそ重大な責任がある」事に気付いたのである。金井さんは頑固一徹に自分を貫き通した。生き方としては不器用なのかも知れないが、かなりかっこいいのではないだろうか。
寛大政策による起訴猶予で日本に帰国したのは56年だった。撫順戦犯管理所に収容された人たちを中心に、「中国帰還者連絡会」が組織され、02年の解散まで自分たちの体験や加害等を証言しながら反戦平和と日中友好の運動を続けてきたのは、衆知のとおりである。彼らは何度も撫順戦犯管理所を訪れ、当時の所長や看護婦、看守の皆さんと交流を続け、友好と信頼の絆を確立している。
敵と味方、否、虐殺された側が譲歩し赦(ゆる)すことにより、此処まで信頼を築けた事は正に「奇蹟」である。それは軍隊や戦力ではなく譲歩し、赦し、理解と信頼を深めることで「平和」が可能であることを証明していると思う。
それは「反動分子と呼ばれた元将校の体験」から辿ったものである。
◆この本に関する問い合わせ先:歸山則之(著者)E-mail:kiyama@n.email.ne.jp