著者:L・C・ザレスキ=ザメンホフ/ロマン・ドブジンスキ
出版社:原書房
定価:2800円+税
発行日:2005年1月25日
このタイトルで日本語版が出版されたのは2005年1月。それより先に2004年5月17日付朝日新聞夕刊が「『ザメンホフ通り』共同翻訳の意義」と題して、同じ年の6月には週刊金曜日が「『ザメンホフ通り』が伝えるワルシャワ・ゲットーの極限状況」と題して紹介している。
前者は、この本がエスペラントで出版され、これを手にした監修者小林司が日本語訳を計画、ITを使って北海道から長崎まで67人が共同翻訳に加わり、予定通り2ヶ月間で完訳したというエスペラント活動家の取り組みを紹介した。後者は、ゲットー悲劇、愛好者67人の共同邦訳、ネット利用 一度も会わず」と紹介。同時に小林司がワルシャワ・ゲットーの極限状況を2ページにわたって紹介した。
原書房で刊行された日本語版には、前ドイツ学術交流会東京事務所長で、岩波新書『危険な言語』の原著者ウイリッヒ・リンスの特別寄稿がトップを飾り、読者の理解を助けてくれている。またB6版450頁余のなかには、日本語版あとがきのほか、原注、参考文献、索引などがつけられ、研究者の読書欲を刺激してくれる。
この本は、国際語エスペラントの創始者の孫にあたるルイ・クリシェトフ・ザレスキ・ザメンホフと、ポーランドでもっともよく知られたジャーナリスト、ロマン・ドブジンスキの対話である。それは1993年にリトアニアで始まった。そして、2001年にポーランド語で出版され、さらに2年後にエスペラント語になり、さらに1年後、日本の読者の目にふれることになった。
筆者註:リトアニアはポーランドとロシアにはさまれた小国。『命のビザ』で知られるリトアニア領事・杉原千畝は、1940年ポーランドから脱出するユダヤ人6000名以上の人たちに、日本通過のビザを書いたことで、その正義の活動は広く知られている。
ザレスキ・ザメンホフは、エスペラント創始者ザメンホフの孫としてばかりでなく、本州四国連絡橋や北海油田の基地建設で利用されたプレキャスト・コンクリートの権威としてたびたび来日し、技術指導をした人でもある。
ポーランドは1917年の第1次世界大戦後ヴェルサイユ条約にもとづいて独立し、この国は民族自決権が保証されていた。第2次世界大戦前ポーランドには3百万人以上のユダヤ人が住んでいて、世界でもっとも大きなユダヤ人の共同体をつくっていたという。それは世界に四散したユダヤ人の4分の1に相当し、主に都会に住んでいた。
1939(S14)年ドイツはポーランドを侵攻すると直ちに、その年の10月にナチス秘密警察がユダヤ人狩りをおこない、有無を言わせず片っ端から逮捕した。その状況は、ポーランドとイギリスの共同制作映画『戦場のピアニスト』に見ることができる。
1940年にはワルシャワにゲットーといわれるユダヤ人居住区がつくられ、壁で囲み、僅か3平方キロメートルの広さの中に、はじめは35万人、やがて50万人も押し込んだ。そこに住んでいたアーリア人たちは追い出されたが、転居先の住宅があたえられなかった。こうしてユダヤ人絶滅への道筋がつくられた。
国際語エスペラントの創始者ザメンホフの家族は、特別にリストにあげられていて、ナチスの秘密情報機関は、同じ日に、同名の苗字の持っているすべての人を逮捕した。
それは、エスペラントの創始者がユダヤ人だったからで、ヒットラーは、エスペラントはユダヤ人どもが他の民族の大衆をこの言語によって容易く統治できるように、特に大衆向けに考案された言語であると決めつけ、エスペラントを『オーストラリアの原始人たちの間に広める価値しかないユダヤ人の言語』とみなしていた。ザメンホフ家の長男で、ザレスキの父も逮捕され、ワルシャワ近郊の森で集団殺戮にあったという。
歴史上、例を見ないユダヤ人の集団虐殺について、当のユダヤ人たちもはじめはあまり深く考えなかったという。腕に巻いた青いダビデの印はむしろほかの人種との違いを表していたし、ドイツ占領当初は、多数の市民を民族に関係なく処刑されていたので、油断があったのだろう。殺される運命にあった人たちには事前に悟られないように、ホロコーストはすこしづつ段階を踏んで綿密に実行された。それが明らかになったのはドイツの敗戦後だという。毎日生き延びることだけで精いっぱいで、その裏で何が行われていたかを知る余裕がなかった。
この本を読み終わって感ずることは、すでにたくさんの人が言及している『過去を正しく学ぶことなしに未来を正しく生きることはできない』ということだ。
広島・長崎の悲劇は、日本人だけのものではないとするならば、ポーランドにおけるユダヤ人の虐殺(ホロコースト)の悲劇を知ることは、21世紀に向かって生きるすべての人の務めではないかと思った。
ナチスは何十万人ものユダヤ人を運ぶ輸送費用を考慮して、ワルシャワとビヤリストクを結び道路上にトレブリンカ絶滅収容所を建設した(1942年7月)。最初の絶滅収容所はそれより半年前にネル河のほとりのヘウムノに建設され、ここでウッジ地方とボズナニ地方のユダヤ人を殺した、という。
そんな中にあってザレスキ・ザメンホフはどのように生き延びることができたのか? これはこの本の一つの山場である。当時14歳の少年は、死体の山に乗せられてゲットーを出て、ユダヤ人墓地まで運ばれ、すべての荷物と一緒に放り出された。ナチスは墓地に興味をもっていなかったので、そのまま去った。彼は偽身分証明書を手にいれ、別人に成りすまし、やがて抵抗運動にも参加する。
1944年7月になると、ソ連軍の進攻を予想してドイツの製造業者は撤退を開始する。そして1945年5月8日のベルリン陥落よりも早く解放の時が訪れた。
この第1章「壁」という部分は、地名こそなじみがないが、そこにいたる経過に、読者は息をつまらせるに十分だ。
廃墟のワルシャワに戻ったザレスキは工科大学で学び、建築技師になる。そしてプレキャスト・コンクリートについての研究で成果を上げ、フランスに移り、世界各地の建築構造物を作り、著名な建築家として働く。ポーランドとフランスの2つの国を祖国に、ザレスキは『技術の革命家』といわれるようになる。石油鉱床を採掘する人工島をつくり、橋脚技術の専門家として来日する。
そうした中で、彼は生き残ったエスペラントの創始者の唯一の孫として、祖父がその生涯をかけて大成した国際語エスペラントとその運動のばらばらにされた部分を自己の体験とあわせて修復し、発展させる。エスペラントの普及のためにブラジルまでも出かけていく。同時にエスペラントが生まれた歴史的背景についての研究も進める。
そして、エスペラントが完璧なまでに学習容易な言葉であることを解明する。この本の第3章『塔』と第4章『道』は国際語に興味を持つすべての人の必読の部分だ。それはこのエスペラントを学び、その普及に努力したいと思う人々に理論的根拠をあたえるだろう。
この本の第5章『橋』では、技術者として、またエスペラント普及活動家の1人として語っている言葉はとても興味深い。それを抜き書きしてみよう。
『地球上のすべての人々は、宇宙における自分たちの立場や地位、それに人類が本来なすべきことや、取り組むべき諸問題について意識するようになると思います。21世紀は、とりわけ環境保護を目指す技術が発展する世紀になり、同時に、また地球上に生存する生物の種を任意に改変することができる技術も発達するでしょう。
21世紀は、科学や技術の進歩を人類共通の利益と幸福に役立てるべきであるという、論理の原則に一致させようとする考え方の世紀になると思います。また人間が直接、生産活動にたずさわらなくてもよい技術が進歩して、その結果、世界経済や社会的条件に革命的変革がおきるでしょう。この変革には地球規模の管理、運営が必要です。そして労働が必要でなくなって生み出される余暇の時間が、まったく新しい活動、たとえば娯楽、思考、科学や哲学の研究といった分野での活動を生み出すようになるでしょう。」
「現代の生活状態の革命的変革に正面から取り組んで、共生の意識を目指す考え方にしたがって、すべての地球上の人々に、それぞれふさわしい生活水準を世界的規模で保証することです。そのような考え方はいかなる国であれ、そこに住んでいる人々の間の平和を維持し、また諸国民間の平和を維持するための不可欠な要因です。それは当然、世界のいかなるところであれ、貧困や飢餓をなくすということでなければなりません。
というのは、平和というものは、飽食をしている人たちと、飢えている人たちの間では成り立ちえないからです。この基本的真理は、1人ひとりの個人にも、またすべての民族、国家あるいは大陸にもかかわってきます。民族主義は、階級闘争主義と同様、国家間の戦争や内戦の要因ですが、地球上の人々が連帯し、諸民族や社会的諸集団の連帯が強化されれば、そのような主義は、当然、説得力を失うようになるでしょう」
「現在、地球の自然破壊が進んでいること、兵器廃絶の努力を踏みにじる戦争がまだ行われていること、内なる文化の多様性を保ちつつ、誰もが自分の必要以上にほしがらない社会を構築していくことをめざさなければならない」と語っている。現在と未来に向かってのこの積極的発言は、人類全体の共通した認識にしていかねばならないことをおしえている。
また国際語を含むさまざまな問題への視点も十分な論拠を持って説明している。それは、ワルシャワのゲットーで、生存の危険にさらされ、両親や叔母たちがナチスに殺されながらも、それにひるまず生き抜いてきたザレスキ・ザメンホフの生々しい体験からほどばしりでた思いの数々でもある。
最後に、この『ザメンホフ通り』という本の日本語共同翻訳は、小さな試みだが、未来に生きる協働、協力、連帯活動として評価されるだろう。すでにその試みはエスペラント仲間の間で各地にひろがっている。改めていえば、この本は「人間いかに生きるべきか」という問題について、その歴史的体験を踏まえた尊い記録であり、若い人たちへのよい教科書である。