JR福知山線脱線事故から3年。1両目に乗って被害に遭った山下亮輔さん(21歳・事故当時大学1年)が救出されてからの軌跡を手記『18歳の生存者』にまとめた。いま、杖を使いながらも大学生活に戻った山下さんは、二度とこのような悲劇が起こらないことを願い、手記をつづったという。
『18歳の生存者』
2008年4月25日
発行:双葉社
107人が亡くなったJR福知山線脱線事故から3年目の4月25日を機に、1両目に乗って被害に遭った山下亮輔さん(21歳・事故当時大学1年)が、救出されてからの軌跡をたどった手記『18歳の生存者』を出版した。山下さんは事故後18時間車内に閉じこめられ、救出されてからも10日間意識が戻らず生死の境をさまよった。長時間の圧迫によって筋肉が壊死する重度のクラッシュ症候群(※注)に見舞われ、両足を切断するかどうかの選択を迫られたが、両足を残す道を選び、苦しい治療とリハビリを耐え抜いた。
いま、杖を使いながらも大学生活に戻ることができた山下さんは、もう二度と、このような悲劇が起こらないよう事故の真実を伝えたい、という思いから手記をつづったという。
■2005年4月25日午前9時18分
山下さんはその日、大学の講義に出るためJR伊丹駅から電車に乗った。ホームで待っていると電車は車両2両分ほどオーバーランして止まった。しばらくしてバックしてきた電車の停車位置はいつもと違っていて「一瞬、何かちょっと変だなと思ったが、その電車に乗らないと授業に遅刻してしまう」ので、先頭車両の一番前、運転席のすぐ隣のドアから乗車し、吊り革を持って立っていた。
塚口駅を通過し、右に曲がるカーブのある手前くらいから走行に違和感を覚えたが、すでに電車は正常の状態ではなくなっていた。女性の叫び声が車内に響き、地面をこすりながら車体が突き進んでいく音が聞こえてきた。ゴーッというすさまじい轟音と衝撃音、金属がこすれるような摩擦音が叫ぶように鳴り響き、そのまま体が窓に突っ込んでいき、目の前に地面が見えた瞬間から記憶を失ってしまった。
■暗闇に充ちていた負傷者の声
気がつくと周りは真っ暗闇で、鉄の焼ける匂いが充満していた。正座したような姿勢で、折り曲げた足の下や膝のあいだ、膝の上には息絶えた人の体があり、腰から下は何かにがっしりとはさまれているようで動かなかった。下半身の感覚は麻痺していて、重さも感じなければ痛みも感じない。ただ、苦しいという感覚だけが下半身にあった。上半身はまだ自由がきき、両手を動かす空間も残されていた。
言葉では表現できないような苦しみの声が暗闇のなかで交錯していた。当初、周囲には少なくとも10人以上の声が確認できた。「痛い!」「苦しい!」……それを制する「うるさい、静かにしろや!」と叫ぶ声が聞こえた。だが、時間が経つにつれて声は徐々に少なくなっていった。
■生存者は「4人や!」
あきらめてはいけないと頭のなかではわかっていたが、どうしても最悪のことが頭をよぎってしまう。それでも絶対にあきらめず、「ここにいます!」「助かるんだ!」と、心のなかで必死に声を上げていようと決めていた。
突っ込んだ電車がマンションの駐車場の車を巻き込み、ガソリンに引火する恐れがあるため、救助には機械が使えなかった。救助隊が彼を見つけたときは午後になっていた。救助隊員は右下の穴から声をかけてきた。
「名前を言うてみ」
「山下亮輔です」
「そこに生存者は何人おるか?」
「4人や!」
ようやく山下さんが助け出されたのは、翌日の午前3時前だった。上の方に穴が開き、男性医師が降りてきて腕に点滴の注射をした。救助隊員が降りてきて引き上げる器具を装着し、引っ張り上げる段になって足に激痛が走り、やがて意識を失った。
先頭車両の4人のうち男性1人は救出作業中に、女性1人は救出後に亡くなってしまった。生存者は山下さんと、もう1人同じく大学生の男性の2名だけだった。彼も後に両足を切断する重症を負っていた。
2005年4月25日
JR福知山線事故現場・閉じこめられた負傷者を救出する救急隊(GettyImages/AFLO)
■両足切断の危機と家族の選択
重度のクラッシュ症候群のため、救出されてからは自力呼吸さえできなかった。
「両足の切断、ということもあり得ます」
医師から告げられた家族は「なんとか切らない方法を」と懇願した。山下さんの意識が戻ったのは10日後、集中治療室のなかだった。
惨劇から救出されたのは嬉しかったが、そこからが本当につらい日々の始まりだった。ICUにいるあいだ、ずっと泣いていた。とにかく涙が次々と涌いてきた。壊死した足の爪は腐って黒くなり、次から次へとはがれ落ちた。高熱のため呼吸もうまくできない。何をやるのもつらかった。
■社会復帰への闘い
事故から1ヵ月後、5月24日にようやく人工呼吸器が完全に外され、一般病棟に移ることができた。そこでまた「新たな闘い」が始まった。足の炎症が原因で、何ヵ月も高熱と頭痛が続き、絶望感にさいなまれ泣いた。事故の記憶は、ふとした瞬間によみがえってきた。閉じこめられていた暗闇の記憶と人々の声が、突如、フラッシュバックしてきた。眠れないので、毎日睡眠薬をもらって飲んだ。
「どうして僕はあんな事故に遭ったのだろうか、これから僕はどうなるのだろうかと、先のことを考えてどうしようもなく不安になり、涙があふれ、自分で自分の気持ちをコントロールできなく」なった。10月にはようやく本格的なリハビリを始めた。杖をつきながらでもいいから、歩けるようになりたい、そして、もう1度、大学へ行きたい。リハビリの痛みに涙を流しながら耐えた。
■「自分に何ができるのだろうか?」
2006年4月、山下さんは晴れて近畿大学法学部1年生としてふたたび大学生活をスタートさせた。現在も左足の膝から下はほとんど動かない。両足首も曲がらず、装具で固定し、歩くときは杖が手放せない。定期的に病院に通い治療とリハビリを行っている。
事故で失ったのは体の自由だけではなかった。中学のときの同級生もこの事故で亡くなっていた。そして高校生のときからつき合っていた恋人とも、いつしかお互いに心が離れてしまう。肉体的にも精神的にも、どん底に突き落とされた状態にあって、彼はずっと自分に問い続けている。「僕はどうして、生き残ったのだろう?」と。
やがて、事故に遭った被害者と家族の支援をしている人と出会い、同じ被害者として何かできることをしたいと、追悼コンサートのステージでギターを弾き、自作の歌を歌うようになった。山下さんは、10ヵ月の入院生活のなかで願った「何か、今の僕を活かしたような、人の役に立てる仕事をしたい」という思いを少しずつ実現させている。手記の執筆もそのひとつである。
* * *
「人命を預かるさまざまな業務に携わる人、一人ひとりが、この事故を教訓に、その責任の重さを感じ、今後決して犠牲者を出すようなことはしてほしくないと切に思っている」と、彼は記している。失われた記憶をたどり、再び現実に向き合うには、たいへんな葛藤があったのではないだろうか。しかし、伝えなければいけないという強い思いで書き上げたのだろう。
重く苦しい体験だが、紛れもなく山下さんにしか書けないものだったろう、と思わせる点がある。厳しい現実を受け入れるのに彼の心はあまりに柔らかい。でもそれゆえに、常に傍にいて彼を理解し、支え続けた人々の温かさが、彼の目を通してしっかりと描かれている。
事故のショックで閉ざされた心を、家族や恋人、医療者たちに少しずつ開きながら、現実を受け入れ、壁を乗り越えていく様はドラマチックである。足が動かないという事実、看護師にあの日の体験を話すとき、そして事故以来初めて同じ電車に乗ってみた日……。苦しい日々のなかで、ひとつひとつ、何げない日常の輝きや、周囲の人の心を慈しむように捉える眼ざしが胸を打つ手記である。
(※注)クラッシュ症候群
筋肉が長時間圧迫されることによって、筋肉細胞が傷害や壊死を起こし、筋肉内の大量のカリウムが流出して高カリウム血症になり、筋肉を構成しているミオグロビンが大量に遊離して、腎臓の尿細管を詰まらせ急性腎不全を起こす。阪神大震災の際にも発生し、多数の死亡が報告されている。
■
『18歳の生存者』JR福知山線事故、被害者大学生の1000日2008年4月25日発行・双葉社
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