著者:織井青吾
出版社:社会評論社
定価:2300円+税
著者織井青吾氏は1931年生れであり、ヒロシマで60年前に被爆したときは14歳であった。本書のプロローグで著者が最近、新幹線で乗り合わせた1人の女性が語る、心の傷ともいうべき深刻な内容(著者自身の被爆体験からも十分に理解し得る)に関する一連の記述は、先ず筆者の心を強く打った。
これは、当時海軍兵学校の生徒であって、十数キロの江田島で遊泳訓練中に原爆を体験した、筆者の心にも大きな衝撃を与えた内容である。
呉市で終戦の翌日に誕生したその女性の姉は当時呉高女の最上級生で、広島市で防空壕掘り作業を、8月6日朝にフトした胸騒ぎに襲われて欠席した。作業中に被爆して全滅した同級生に対するサバイバル・ギルドと言うべき心理状態に一生涯付き纏われた。
そして、48歳の若さで、やっぱりバチが当ったと、言い続けて2人の子供を残し、乳癌で他界した。
この話が著者をたちまち60年前の焦土と化したヒロシマに連れもどした。そして原爆が投下された時、日本はどんな国であったか。戦時下、広島の人びとはどんな暮らしをしていたのかについて、ノンフィクション作家である著者が、家族、友人、教師など生を共にした人々の「遠い記憶」を辿り、ヒロシマ、そして日本の今に問いかけを行なったのが本書である。筆者は本書が多くの人々に読んで頂く内容を持つ力作であると確信する。
第一章 御幸橋(みゆきばし)
廣島に原爆投下直後の現存する写真は、著者が6枚だと記憶しているようだ。その内で、本年1月に他界した、当時中国新聞社のカメラマンであった松重美人が、御幸橋の袂で撮影した、1枚が著者には忘れられないものであると言う。
御幸橋の命名の由来と、当時廣島高師付属中学3年生での友人である三浦亜沙夫の幼時よりの想い出も興味を引いた。また、上記した写真撮影の1時間程前に現場を通りかかった著者は同様な光景を見ており、附近に被爆者を満載して停車していたトラックに三浦が収容されていたのが後に判った。
それは今より24、5年後に会った三浦のご母堂の話からであった。そして著者の、何故あの時、トラックによじ登ってでも彼を探さなかったのか、との悔恨が著者の胸を打った。此れは筆者にも十分感情移入し得た。
第2章前夜;
多くの事柄が時系列的に記述されて興味深い。中でも、著者に見知らぬ1人の23、4歳の見習い士官が、米軍情報として明日6日、廣島に新型爆弾を投下するので、非戦闘員を、今夜より郊外に避難するように、との通告があった旨を伝えた時の描写に迫力があった。当の見習い士官と少年時代の著者との言葉の遣り取り、その夜両親に事実を話した時、母が明日の欠席を勧める言葉に対する著者の反論、さらに3人の心の綾が、小説を読むよりも強く心に迫った。
第3章 その時わたしは;
爆心地から1670メートルの地点で、中学3年の同級生1人と17名の下級生を引率して農園作業に向っていた著者は被爆した。著者自身の怪我、多数の被爆者達や、廣島市街の惨状等の地獄絵図は此処に記すまでも無く無惨なものである。特に、下級生3人と避難途中、半ば壊れた無人の家で、重傷の1人の下級生を横にさせて休息をとっている時、突如殺気だった、陸軍の憲兵伍長が現れ、軍刀を抜いて「戦争に休みがあるかッ!」と中学生達を威嚇したくだりは決して忘れ得ない。
午前10時ごろ辿り着いた陸軍共済病院の惨状も鬼気迫るものがある。夕暮れ近く、著者には以後再会不能となった、廣島県立1中1年生の石田と名乗る生徒が「日本は勝つゼッタイに負けん。負けて堪るか・・・」と言うのを聞いて、病院を後にした。そして帰宅の途上、1民家で水槽に20個以上のトマトを浮かべ、張り紙をして、自由に通行人に食べさせており、著者も恩恵に与った。此れには著者と同様、筆者も大いに感動した。
第4章 一人ひとりの原爆
本章も内容が豊富で、一人ひとりに付いて感想を書ききれない。著者の二級後輩で、被爆がかなり重かった下村幸男氏が、戦後サッカーに打ち込み、全日本の名ゴールキーパーとして、メルボルンオリンピックに出場等々の大活躍した氏に関する1つに触れたい。
著者が昨年(2004年)7月に氏に会って聞いた事
原爆投下の9日前に撃墜され捕虜になったB24搭乗員の1人が、原爆投下の翌日、相生橋東詰の原爆ドーム寄りの橋柱に、後ろ手に括り付けられ、数十人の人だかりがしていた。殴る、蹴るの暴行を受けており、多分死んだであろう等の事であった。著者は、戦争は人を鬼にすると、平和や核廃絶を唱える人達にも己の都合の悪いその事は語らぬと、被爆者の一人として恥じ入る思いであると記す。著者の心を重く深く、受け取らせて戴いた。
第5章 戦争は終わったが
内容が豊富であり、書くべき事が多すぎる。以下簡単に記す。アメリカの廣島、長崎への原爆投下が、米軍兵士100万の命を救う必要な措置であると正当化している事に対し、著者は現時点での米軍のイラク人殺傷が<ネセサリ・コスト>と称する事と結びつけていると記す。
大いに賛成である。そしてつまり、此れが戦争の現実であり、原爆を使ったアメリカに、しょせん帰り道は無い、その上、劣化ウラン弾を使用し続けており、日本の自衛隊もこれを購入し装備していると記している。此処に今後挑戦すべき問題点が残されている。筆者はこれ等の問題に関連した文章を、今後残された生涯を賭してその作品を書き、死後に残したく、既に計画を立て、実行している。
更にまた、4年以上続いた小泉政権が益々アジアの孤児に成りつつある事を著者と共に強く愁うる者である。最後に特筆したい事に、母親の献身的な愛がある。莫大な死の饗宴の最中、著者を始め原爆で重症の子供達で、母の昼夜を分かたぬ看護によって救われた事例が本章には多々見出されている。
最後に、筆者の体験に基き独自の感想を付加する。筆者は19歳の夏の8月6日、海軍兵学校の生徒であった。当時、江田島湾の沿岸の住民にチフスが発生した関係から、江田島湾を早朝カッターで横断し、能美島の尾根を越えて、近くに大黒神島、遠くに岩国が望み得る海岸で遊泳訓練に励んでいた。
その状況と8月22日に兵学校が解散となり、廣島駅に8時間程待機させられて、貨車で静岡県の郷里に向けて夕刻出発するまでプラットホームから観察した、廣島市の惨状等を描写した文章や半導体放射線損傷の15年余の研究成果を多くの論文として持っておりまた1975年に原爆を開発したロスアラモス研究所を一週間程訪問している。これ等にも触れたいが割愛する。
ここでは、TBSテレビ特別番組(05年8月5日放映)の最後に近く、DR.アグニューと被爆者である、藤井照子さんと西野稔さんの対話は非常に重い意味があると思うので簡単に触れておく。
DR.アグニューは、ロスアラモス研究所で原爆の開発に携わり、原爆を廣島に投下し、更に原子雲等の撮影を行なっており、今回は60年振りの来日である。
2人と対話する前日、DRは廣島平和記念資料館を訪れ、つぶさに見学した。自分達が作った、観測装置等をも見た。さらに被害者の写真、人体への悲惨な傷跡等を見ている。また現在でも放射能の被害に苦しみ、ガンを発症し、或は亡くなって行く人達の話を聴いた。彼は見学後、素晴らしい展示であると、通訳の女性に感想を述べていた。
さて、翌日、被爆者2人との対話において、2人の誠意ある問い掛けに対して、戻って来たDRの答に大きな問題点を感じた。彼の言い方は大体「民間の無辜の人間が攻撃され殺されたと言うが、戦争中は罪のない人はいない。総ての人が戦争に協力している」、「一発一瞬間の原爆と東京等の空襲とは攻撃する時間に差があっただけだ。また死が問題であり、用いられた兵器は何であっても結局のところ、死は同じである」、「誰かを非難したいのならば日本軍を非難すべきである」、「大量破壊兵器と言うが、通常の兵器‐爆弾でも、原爆でも死ぬのは、同じである。
貴方達は生きているだけで幸福である」、とか「私の野球でのパートナーであった友人は日本軍との戦闘で戦死した、バターン、真珠湾等々でもアメリカ人は死んでいる」と原爆を特別視していない。ただお二人の述べた、放射能に関連し、「核兵器が放射能の後遺症で人を後々まで苦しめると言うが、そんな恐ろしい兵器だからこそ戦争の抑止力になる。何処の国も核兵器を使うべきではない」と彼が言った時、原爆は使うべきでないと言う一点でのみ、三人の同意が成立したかに見えた。
しかし、特筆すべき事は以下である。西野さんが今まで心の中に深くしまって来た思いを述べた時、DRの表情が一変したのである。それは、西野さんが概ね、「私の年代は最も多く原爆で死んでいる。自分が死んだ時、原爆で死んだ人々に、その後の日本の事、爆弾がどんなものか、誰がどんな思いで使ったか等、種々報告する義務がある。
先刻、貴方の言のように、原爆を作り用いた側に謝って戴けない事を彼等には伝えられない。アグニューさんが謝って戴けるならば、それを皆に伝えたい」、との趣旨のことを述べた。DR.アグニューは此れまで柔らかであった表情を急に硬くして「私は謝らない、彼(西野さん)が謝るべきである。こんな言葉がある<真珠湾を忘れるな>だ」と答えた。
藤井さんはアグニュー氏の話を聞き、「理解して頂けなかった」と、涙ぐんだ。西野さんは「昨日今日と我々の思いを伝えてあるので、それを大事にして貰いたいと思う」と述べて対話が終った。此処に今後永久に解いて行かなくてはならない問題が残されていると思う。
筆者は本書に盛られた内容と共に、上記一連の対話を言わば、禅の一公案のようなものとして、日夜考え抜き、今後、前記した作品を仕上げていく上での糧として活かしていきたいと思っている。