著者:宮台真司
出版社:実践社
定価:1800円+税
◆内容の紹介
宮台真司氏による講演録を中心に、巻末に編集部によるインタヴューが収められたのが本書である。2001年5月から2003年9月までの間になされた講演は、
1.アメリカに従属する日本に未来はない
2.米国中心型のグローバライゼーションに抗う為の知恵
3.ネオコンの正体は文化的多元主義
4.「気分はナショナリズム」という売国
5.学校の外に価値を見つけだせ
とのタイトルが付けられている。タイトルにある亜細亜主義とグローバライゼーションが話題の中心である。内容を私なりの言葉で簡単に紹介したい。
グローバライゼーションとは何か。宮台氏は、「軍事力一極集中化」、「高度情報社会化」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフの浸透」という3側面を挙げる。
これまでも帝国主義的なグローバリズムとして第1・第2の側面が世界を席巻したという歴史がある。しかし、現在のグローバライゼーションは3番目が特徴的だ。マクドナルドに限らず、経済的にも文化的にも快適な生活を送りたいと世界中の人が思うようになってきている。
その結果どうだろうか。世界中の人が同じような快適さを求めると、どの街もどの人間も均質化し、グローバルな規模で置き換え可能な存在になってしまうのだ。つまり、「私」こそが「私」であるという自信を失った、落ち着かない社会が出現する。この状況を、宮台氏は「過剰流動性」と分析する。
これにどう対抗するか。これまでの近代の帰結である「過剰流動性」に対しては、近代の力を使ってその限界を乗り越えるべきだ。その先駆が戦前日本の亜細亜主義であり、現在成功しているのはEUである。亜細亜主義は日本がアジアの盟主になろうとして失敗したが、その顛末(てんまつ)に学んで、アジア諸国の協調でグローバライゼーションに対抗するべきだ、という結論になる。
◆本書への疑問
本書をごく簡単にまとめると上のような趣旨になる。
ここで、宮台氏のスタンス(前提)を2つ指摘しておくことができると思う。ひとつは彼の人間観であり、徹底して合理主義的・近代的な人間像(=自我の確立した個人)である(個人主義的ではないが)。もうひとつは彼の社会観(世界認識)であり、それは、多元的・重層的なシステムとして社会を捉えている。
宮台氏の専門は社会学・社会思想であり、社会システム理論を論じている。また、本書と別の場所では「自分は革命家になりたい。社会に革命をもたらすための手段として社会学をやっているのだ」というような言い方もしている。
そんな宮台氏らしさが本書にはよく表れていると思う。多くの人がテレビなどで宮台氏を見るかもしれないが、軽い口調はそのまま、内容的には(一般向けの講演とはいえ)高度である。ネット上で、したり顔に社会学的な言い回しをしている人にはついていけないだろう。国際情勢から援助交際まで知っていても不十分で、社会思想についての知識が必須だと思う。
かく言う私も、社会思想なんて大学での概論程度しか知らない。宮台氏の著作には初めて接した。それでも、ともかく、上のようなことを感じた。大体わかったような気もするが、納得できない部分もある。本書の内容は多岐にわたるが、上記の宮台氏のスタンスに関連して2点だけを述べたい。
まず、社会を見るスタンスについてだが、これは論理的に説明されもする。例えば、中間団体を重視すべきだと彼はいう。現在(海外では少し昔かもしれないが)の経済論者が言うような市場主義では、過剰流動性という不合理な帰結に陥る、と説明される。この不合理を克服するためには、「近代の超克」を唱えてもアメリカに押しつぶされるだろうし、そもそも「近代の超克」は限界を抱えているかもしれない。だから、合理を押し進めるべきだという。その答えが「マルチレイヤー的な異主体システム」である。
こうした論考は、他の論者と共有できる知識の上に構築されており、納得がいくし、この答えをデュルケーム『社会分業論』以来の社会学的思考の伝統上に捉えるあたりはとてもよい。
しかし、すべてに論理があるわけではない。特に宮台氏のひとつめのスタンス(人間観)は特にそうだろう。本当に人間がそんなふうにできているのかは分からないだろう。むしろ、彼は「人のいいなりにはなりたくない」といったような、個人的で論理で説明できるわけではない「思い」に基づいている。
たとえ学問といえども、その基盤は思想と密接にからんでいる。だから、学問が「思い」に基づいているのは悪いことではなく、むしろエレガントな論理に足りない部分を補う要素だろう。
だが、個人的には、彼の人間観に違和感を覚える。新古典派経済学が言うような個人主義的で最大化問題を解くアクターとしての人間ほどではないが、人間はそんなに合理的に行動できるのか、あるいは、合理的に行動すべきなのか。宮台氏は社会問題に関しても多くの発言をしているが、合理主義を押し進めていっても、自己が他者と交わる現場が実際に抱える問題を解決できるのか。
もう一点疑問を挙げたい。それは、彼の文化多元主義(カルチュラル・プルーラリズム)に関する主張だ。宮台氏は文化多元主義は近代主義の立場だが、その反対に多文化主義(マルチ・カルチュラリズム)は反近代の立場だと論じる。
確かに、多文化主義は行き過ぎると、文化を楯に「何をやっても許さる」論になってしまうだろう。しかし、多文化主義はそんなに簡単に切り捨てられる考えなのだろうか。また、宮台氏は、多文化主義の欠陥を亜細亜主義がそうであったようにネオコン的文化多元主義に負けてしまうという点に求めているが、真実だろうか。
宮台氏は、ネオコン的文化多元主義よりもEU的文化多元主義の方が「相対的に是」というが、アメリカと欧州の差はどの程度の深さ・幅を持っているのだろうか。あるいは、欧米とは思想的に異なる「アジアの道」はないのだろうか。コスモポリタンな世界を考えるのは夢想にすぎないのか。
この疑問は宮台氏への疑問というよりも、今後の私の課題としたい。
◆この本を薦められるか
以上、本書の筆者以上に分かりにくい文章を書いてしまった。この小文は感想文として読んでいただきたい。
最後に。この本を他の人に薦められるか? 微妙だという答えではだめだろうか。
宮台氏の議論についていくのは難しいし、宮台氏の議論と正面からつき合いたいならもっと硬派な文章を読むべきかもしれない。しかし、「民度の低い平和ボケ」日本人に刺激を与えてくれることは確かであり、彼自身、最近は亜細亜主義に注目しているそうだし、彼の考えに触れるなら本書は適当かもしれない。
筆者の公式サイト: MIYADAI.com Blog
http://www.miyadai.com/
(筆者のプロフィールなどもある。ちなみに現在は首都大学東京・助教授)