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『能のふるさと散歩』を読んで

中村孔治2006/11/08
能のゆかりの地を訪れ、撮影した墓碑や建物および、能舞台上の登場人物の写真および各曲目の「あらすじ」や曲目の舞台・土地、さらに登場人物に関する適切で簡単・明瞭な、説明文はすべて、読者の多面的理解を助けるものと確信する。
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<center>写真・文:岩田アキラ<br>
出版社:NHK出版<br>
定価:2800円+税</center>
写真・文:岩田アキラ
出版社:NHK出版
定価:2800円+税
 古来創作された謡曲は2000番余である。しかし、戦後の現行曲は、各流派を合算して、240番前後であるようだ。その内、能会は勿論、謡会ですら全然演奏されない曲もある。

 本書の上巻に、京都・奈良を舞台に物語の展開する能61曲、また下巻に、東北から九州までの各地を舞台に物語が展開している能77曲が取り上げられている。そのほとんどすべてが代表的名作として、よく愛好家や世人に知られた謡曲であり、また珍しい曲目も含まれている。

 著者の取材は平成元年から平成18年にかけての長期にわたっている。実際に、能のゆかりの地を訪れ、撮影した墓碑や建物および、能舞台上の登場人物の写真および各曲目の「あらすじ」や曲目の舞台・土地、さらに登場人物に関する適切で簡単・明瞭な説明文はすべて、読者の多面的理解を助けるものと確信する。

 本書の上・下の巻頭で、1ページを割き「この本の見方」が記載されている。その一部に、「本書を手に、夢幻能の世界へ、夢の舞台となっている古跡へ、旅していただけたらと思う」との文章がある。私も暇を何とか捻出して、著者が言うように、新しき発見や物語の主人公になったかのような幻を見る、といった素晴しい体験をしたいものである。

 本書は、非常な労作であり、いずれかのページを開かれたならば、能楽愛好家の方々は、たちどころに、その真価を認め得ると思う。さらに、言うまでもなく能の初心者の方々にとっても最適の入門書であり、本書上・下巻共々、江湖に広くひも解かれるべき書物であると確信する。

 本書の巧みな分類に加えて、私は主人公(シテ)による分類を付加する。

 <A>男(含む男神)、男神が人間の前に現れ、天地人を祝福。過酷な運命を生き終えた男達が物語る

 <B>女(含む女神)理不尽な運命を生き、死んだ老若の女性の物語

 <C>鬼・怨霊・精霊・天狗・妖怪等人間界超越した主人公の物語(それを、夫々 以下の曲目に表示する)

 3者共、僧侶が現世に執心を残している死者や怨霊の菩提を弔う場面がかなり多い。

 以下順を追って、特に、私が興味を持った点のみをピックアップして、ごく簡単に感想を述べ、最後に私独自の感想を記述する。

 上巻(京都・奈良編):

 葵上…<B>シテが六条御息所の霊であり、葵上に取り付いた怨霊である。特に後シテは鬼相で、<C>と思うが、文献(F)に従う。舞台は京の一条大路と戻り橋。葵祭を見た事もあり、感興大。

 定家…<B>源平の合戦に運命を翻弄された、式子内親王の墓に絡まる定家葛に関連する物語。定家及びその和歌に付き勉強した経験有り。お墓は舟院(千本今出川交差点の東北)。

 大原御幸…<B>寂光院に住む建礼門院を夏のある日、後白河法皇が慰めに訪れ、女院から平家一門の滅亡の様子を聴き、見送られ帰る。寂光院に放火以前、私は四季総て訪れた。

 鞍馬天狗…<C>牛若丸と前、後シテ‐山伏、天狗(仏教と正義の護持、神通力による高慢は挫かる)花見時の物語。写真と文章から未訪問‐本曲の舞台を訪れる事を切望。

 融…<A>光源氏のモデルと言われる源融と東国の僧の物語。舞台の五条大橋西詰の南西にあった六条河原院は、現在の渉成園(枳殻邸)に似る。昔訪れた記憶あり、再訪したい。

 熊野…<B>熊野が仕える宗盛との病の母を巡る物語。舞台は清水寺子安塔。母娘の墓のある、天竜川東岸、池田の所縁の寺で房が1m以上の長藤が咲く(5歳時に登り長藤房を折取り、管理人が咎め父の詫びた姿を、75年余経た今、藤の香、蜂の羽音と共に想起する)。

 西行桜…<A>西行(ワキ)と桜の精(シテ)との物語。舞台は西行が武士を捨て出家し歌人ともなった小塩山勝持寺(花の寺)。私は『山家集』等の和歌を愛し、吟詠もしている。

 春日竜神…<A>明恵上人(ワキ)と前、後シテの宮守の老人(時風秀行)、龍神との物語。舞台は春日大社(数回参詣)。仏教的色彩が多い能楽中、春日大社の神徳賛美の」異色能楽。

 土蜘蛛…<C>僧・土蜘蛛の精(前・後シテ)源頼光と胡蝶(ツレ)一人武者(ワキ)等多く登場。『平家物語』等より構成に興味あり。土蜘蛛とは大和朝廷に従わぬ列島土着民。

 下巻(東北〜九州編):

 殺生石…<C>玉藻前に化けた妖狐が退治され、執心が殺生石となり、上を飛ぶ鳥を殺した。玄翁上人の弔いで全く消え去る。舞台は那須高原・殺生石。昭和40年代迄2度訪問。

 隅田川…<B>梅若丸の母(シテ)渡し守(ワキ)梅若丸(子方)等出演。梅若の聡明に過ぎる為の悲劇。舞台は木母寺と梅若塚(前年に忠圓阿闍梨が村人と梅若の亡骸を葬った)。
 
 小袖曽我…<A>曾我十郎(シテ)五郎と兄弟の母(ツレ)等の仇討前の物語。舞台は曾我の里。小田原市曽我の城前寺での討入時松明に因む「曽我の傘焼き祭」に何れ訪れたい。山姥‐<C>山の女、山姥(前、後シテ)と遊女百万山姥(ツレ)等の物語。舞台は糸魚川市の上路の里、山姥神社。山姥とは、先住民族の末裔、山の神に仕える巫女の妖怪化、地母神の劣化。古事記イザナミを難産死後葬る「比婆山」が山姥の語源とも、空想を呼ぶ。

 安宅…<A>武蔵房弁慶(シテ)源義経(子方)富樫(ワキ)等の物語。舞台は安宅の関。『吾妻鏡』に関へ桜の頃来たと記す。歌舞伎十八番「勧進帳」は能を基にし、此れも名作。

 姨捨…<B>里の女、老女の霊(前、後シテ)都の男(ワキ)等の物語。舞台は千曲市姨捨山。里の女が『古今和歌集』の歌を挙げ、己が姥の霊だと言い消え、満月の下、老女の霊が極楽を描写して舞う。練達の先人達が、和歌や俳句に多く詠む。それに私も肖りたい。

 巴…<B>里の女、巴御前の霊(前、あとシテ)旅の僧(ワキ)等の物語。舞台は粟津ヶ原。木曾か来た僧に、里の女が義仲を祭る神に経の読誦を依頼して消え、巴御前の霊が現れて、合戦の様子を語り、回向を依頼する。6年間、高蔵寺駅付近に住み、木曾駒ケ岳に2回登山し、木曾谷は多数回訪れ、福島駅前の巴の騎馬銅像も見、非常に想い出多き土地。

 道成寺…<B>白拍子、鬼女(前、後シテ)道成寺住職(ワキ)等の物語。後シテが鬼女で<C>とも思う。舞台は道成寺(私は未訪問)。住職の昔話は、安珍と清姫の悲恋伝説とやや異なり、山伏が焼殺される。今、蛇体に娘の霊が現じ、僧達の祈りで日高川に消える。

 敦盛…<A>里の男、平敦盛の霊(前、後シテ)蓮生法師(ワキ)の物語。舞台は須磨の浦(曾遊の地)、須磨寺。熊谷次郎直実(出家し、蓮生法師)の夜を籠めての念仏供養に、平敦盛の霊が感謝して、立ち去る。他に、『平家物語』、歌舞伎『一谷嫩軍記』等で有名。

 高砂…<A>木守の老人、住吉明神(前、後シテ)木守の姥(前ツレ)旅<同行>の神職(ワキ、ワキツレ)らの物語。舞台は高砂神社。夫婦和合、天下泰平、歌道繁栄等を相生の松の栄が表すと松の精である老夫婦がほのめかして去る。何度も招待され、結婚式で謡った。

 景清…<A>景清(シテ)人丸、従者(ツレ)里人(ワキ)の物語。舞台は生目神社、景清廟。猛将だった彼は平家敗亡後、日向に下り乞食琵琶法師に身を窶した。娘の人丸が訪れ父娘の対面、彼の武勇の語り等が心を打つ。宮崎市に16年勤務し神社には何度も詣でた。

 以上で一応、個別の曲目に関する感想文を終えるが、他にも書きたい事は多いが割愛する。なお、詳細は割愛するも、上巻の、「紫式部 源氏物語と能」、「猿楽(能楽)と世阿弥」、「なら興福寺の薪能」、「春日若宮おん祭」、「能の基礎知識1」下巻の「阿弥と佐渡」、「厳島神社桃花祭」、「能の基礎知識2」は非常に興味があり得る所大であった。

 最後にごく簡単に感想を付加する。

 昭和29年の春頃と記憶するが、当時都電大曲駅付近に能楽堂を持つ、観世流浅見家の新進気鋭な跡継ぎの方に、謡の手ほどきを受け始めた。上記能楽堂で能を見学した経験もあった。その後転勤等で、関連のものを読書する事はあったが、此の道とは長く全くご無沙汰であったと言い得る。今回、上・下卷で21曲につき感想を書いたが、以外で習った曲もあった。以上は、遠い昔の事のようだが、現在、本書の感想文を書く幸運を得て、下記の参考文献等を座右に置き、随時披く事もあり、それは、無上の楽しみの一つと言い得る。

 今回は特に、文献(K)に関連して記す。本書も立派な書籍である。ただ、日本古来の芸術に関する記述に欠けるのが残念である。世阿弥を始めとして、世界に誇りうる人々がいるのは否定できない事実であろう。

 あえて言うならば、渡辺氏が言う、ディオニュソス的なものの不条理の深淵等を、日本人の達識の人々に、能楽より探り出して戴きたいと思っている。

参考文献:
(A)世阿弥著、『風姿花伝』 1958年、文庫―岩波書店
(B)梅若猶彦著、『能楽への招待』 2003年、新書―岩波書店
(C)馬場あき子文、堀上謙写真、『源氏物語と能』1995年、婦人画報社
(D)秦恒平文、堀上謙写真、『能の平家物語』 1999年、朝日ソノラマ
(E)多田冨雄著、『脳の中の能舞台』2001年、新潮社
(F)多田冨雄監修、森田捨四郎写真、『名作能50』 2005年、世界文化社
(G)渡辺淳一著、『秘すれば花』 2001年、サンマーク出版
(H)横浜能楽堂編、『能楽史事件簿』2000年、岩波書店
(I)丸岡明著『観世百番集』昭和34年、能楽書林
(J)村山修一署『藤原定家』昭和37年、吉川弘文館
(K)渡辺二郎著『芸術の哲学・放送大学教材』1993年、放送大学教育振興会

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[22970] 田口汎様,能で「後ジテ」に興味を持たれたとの事、拝承致しました。
名前:中村孔治
日時:2006/11/22 11:49
「大淀」最期の日、7月28日(土)朝に始まる描写は胸を打ちます(その中で、藤田生徒が草間中尉をお見舞いしたのは、兵学校の御殿山の防空壕でない事が判りました。有難う存じます。間違った文章を残す事をも免れて嬉しく存じます)。
貴兄の長姉は多分、昭和5年頃に、お生まれになったと存じます。従って、草間中尉の許婚の方は、私よりも、少し若年であったのではないでしょうか。そのうら若き乙女が許婚の戦死を確認されたときの、悲しみが61年余り経た、今でも人事ならず鮮明に想像されます。
さて、貴兄が言われる―能で「後ジテ」に興味を持ち始めたのは、「霊魂の存在」を信じようと信じまいと、あの方々が「霊魂」でも「怨霊」でも「後ジテ」にでもなって、再び現世に姿を現してくれたらと願うからです―は将に、私にもあい通じるものがあります。
それは、『戦艦大和』にも書かれた、特攻出撃に際しての、多くの乗組員‐中には、美しき許婚や年とった肉親を故郷に残し、必死の特攻の意味に心を悩まし、或いはそれに心を研ぎ澄ます等の青年達、例えば、臼淵大尉の「新生の日本にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」や学徒出身仕官の「俺の死を普遍的な価値に結び付けたい」等々にも言える事と存じます。
もし、今生きておられたら80〜100歳前後、或いはそれ以上の方々が、戦死されず、新生日本で活躍したと仮定致しますと、現在の日本の姿とは、随分違っていたと存じます。
 最後に、平和省をつくろうという運動にかかわりがおありとの事、私は、不明にも、今回が全くの初耳でした。この関係でも、今後宜しくお願い致します。
JANJANの皆様にも、大いに関心をもって戴きたいと思っております。
[22949] 草間四郎大尉の戦死
名前:田口汎(梵音)
日時:2006/11/21 09:59
「大淀」最期の日、朝5時50分発の兵学校定期が飛渡之瀬桟橋に着到寸前に艦内放送が聞こえました。すでに「敵数目標、豊後水道を北上中。空襲警報、戦闘配置につけ」という甲板士官輿石砲術長が落ち着いた声で下令するのが印象的でした。まだ村役場、消防署、学校のサイレンは鳴っていませんでしたが、自主的に登校を中止し、集合場所飛渡之瀬神社脇の防空壕に向かいました。
 あの山の防空壕の前で、「大淀」の主砲発砲のシーンを見ました。上陸していた機関科下士官と、はらはらしながらそれを見ていました。「大淀」が発砲する砲・機銃弾の破片が、雨のように付近に降り注ぎましたが、その危険よりもそのシーンを凝視することのほうが増さって、立ち続けていました。
 夕刻に戦死者を探した中には(大淀負傷者や遺体は海沿いの縦穴壕に収容されるように準備されていましたので、兵学校には搬送されていません)、当然「草間大尉(戦死後進級)」もありました。草間中尉の許婚は父の少し先輩将官(少将)の息女で、わたしの長姉(県立呉第一高女3年)よりいくつか年長で、挺身隊員だったと記憶します。呉市安浦の火薬廠で長姉と一緒に勤労動員で働いていましたので、呉第一県女の卒業だったかもしれません。お母上と我が家に何度か見えましたのが、わたしの両親が仲人をすることになっていたからだったようです。7月29日か、30日に安否を尋ねて、我が家に見えたのを覚えています。まだ戦死者名簿も整備されていなかったのでしょうか、それとも一般には開示されない規則だったのでしょうか、母が「気を落とされないように・・・」と繰り返していたのも覚えています。母には草間中尉戦死のことは伝わっていたのかもしれません。姉たちが「半泣き」の顔つきをしていましたので、安否が判明していた可能性があります。
 「大淀」戦死者264名だかの最先任者(士官次室のケプガンだったと思います)で、「慰霊祭」ではいつも冒頭に「草間大尉以下・・・」と祭文が上げられますので、紅顔の美青年だった草間大尉のことを思い出します。わたしはいつも「艦長代理」として最初に献花しますので、草間大尉のことを想い起こすことしきりです。
 わたしが能で「後ジテ」に興味を持ち始めたのは、「霊魂の存在」を信じようと信じまいと、あの方々が「霊魂」でも「怨霊」でも「後ジテ」にでもなって、再び現世に姿を現してくれたらと願うからです。
 わたしも平和省をつくろうという運動にかかわりがありますが、その件はいずれのことにします。
[22923] 田口様、平和の尊さが痛感されます。
名前:中村孔治
日時:2006/11/20 14:39
田口様、有り難う存じます。非常に参考になりました。
昨日は『平和省プロジェクトJUMP 国際シンポジュウム』が午後6時半から9時まで、地下鉄麹町近くの全国教育文化会館、大ホールで開催され、出席しました。中々出席者も多く、内容も素晴しかったと存じます。何れ、記事にしてJANJANの皆様にも、ご紹介致したいと思っております。
従いまして、田口様の文章を拝見するのが、本日になりました。その鮮烈な内容を今後の私の仕事に、活用させて戴きたく存じております。
戦争が如何に、残酷なものか、また、非常に心身ともに優れ、惜しむべき若者も、一瞬にして、死の淵に放り込まれます。
田口様の文章にもあった惨たらしさが、我々の周りの随所にありました。☆以下の私の文章も、そんな凄惨な状況の中の一齣です。
JANJANの皆様、大勢の方々にも、お読み戴き、感想をお寄せ下さる事をも、願っております。
☆75期であった、海軍兵学校江田島、本校401分隊、森本氏の手記に関する文章をさらに、私が以下に纏めました。
<軍艦大淀の機銃群の指揮官、73期生徒、昭和19年3月同期998名中第2位で、恩賜の短剣を拝受し兵学校を卒業した、草間四郎海軍中尉の戦死の状況;昭和20年7月28日、夕刻、本校401分隊の藤田伍長(生徒三千人余りで十位以内と推定)が連絡を受けて、防空壕に行った。坑道に並べられた担架の一つを示されて、見れば包帯に包まれた、三号時代の分隊伍長であった。藤田の呼び掛けに、草間は感謝の意を述べ、次いで脚をやられた、と言った。機銃座で襲い来る米機を撃墜しようと指揮を執りつつある最中に、直撃弾で、数メートル下の甲板に吹き飛ばされ、片足の大腿部の肉を削ぎ落とされたのである。草間は担架の傍らに置かれた、彼の軍刀を自分に渡して欲しいという。藤田が枕元に軍刀を置いた時、草間は言った。―もう俺は脚をやられ、お役に立てない。貴様、すまんが、俺をその刀で切ってくれと言う。藤田は懸命に制した。俺の気持ちが判らんのか、と言う。両者の目からは、何時か涙が溢れていた。苦痛に悶えていた、草間も程なく疲れ果てたのか、眼を閉じ眠りに落ちたようだ。坑道の中に灯る裸電球の薄暗い光の下、あの精悍であった、一号生徒であった当時を、回想した。将に大恩のある人である。望み通り、切って差し上げたいのであるが、心の深奥からの声がそれを押し留めた。こうして、当時の日本人青年の中で、精神的にも肉体的にも、最も優れていた、男の中の一人が、出血多量で眠るように逝った。>



[22915] 中村孔治様
名前:田口汎(梵音)
日時:2006/11/19 19:45
先ほど中村様のコメントを受けて、意見板に書き込みましたが「投稿する」をクリックした瞬間に全部きれいに消えてしまいました。同じことを二度書くことには気が進みませんが、中村様が小説を書いておらるということなので、些細なことですが多少の訂正をお送りします。
 父の記しているところでは、軽巡洋艦「大淀」(艦隊旗艦として設計・通信施設・電探3基・「紫雲高速偵察機」6機)などかなり整備されていたそうです。ただし、航空機は父の艦長時代には撤去され陸上に上げられていましたが、発射台(カタパルト)はそのまま残っていました。兵装装備は主砲15.5サンチ(大和副砲と同じ)三連装、前部砲塔2基で6門、後部砲塔1基3門でした。高角砲は55口径10サンチ両舷2基4門、合計8門(これも大和と同じ)、20mm、30mm連装、単装機銃は80門だったそうです。
 7月24日は、わたしは八方園上の「従道国民学校4年生」で、空襲時には兵学校に到着していました。両親に指定されていたクラスメートの家には到底行き着けず、生徒館裏の壕で「利根」の重傷者と同壕していました。治療壕だったようで、沢山の兵隊が死んでゆくのを見ました。麻酔せずに手足を切り落とす時の絶叫は、しばらく耳から離れませんでした。人間の腸があれほど長いとはそのとき知りました。兵隊が自分で自分の腸を腹に押し込み押し込みしていましたが、そのうち「コロリ」と倒れると戦死していました。
 夕刻、裏門から鷲尾辺りに差し掛かると、「大淀」が黒煙に包まれており、親父は生きていないなと覚悟したのを覚えています。翌25、26、27日と兵学校定期で表桟橋から従道国民学校に通いました。25日に「利根」の脇を秋月(火薬庫があった)桟橋に向かうとき、煙突の左舷が直撃弾でそぎ落とされて中の機関室が丸見えでした。デッキが凸凹で、人が立っているのさえ難しかったでしょう。すでに着床していました。乾舷がほぼ全没していました。28日にはさすがの黛艦長も、お手上げだったそうです。
 飛渡之瀬村の応援隊が手押しポンプを持って、「大淀」に乗艦してきたことは本当ですが、応急指揮官の鈴木副長が「遺骸運搬を頼む」と頼んだそうです(鈴木副長談)。28日の空襲で、父が測距儀の架台に乗って指揮していて、防空指揮所にいたほぼ全員が戦死したことは確かです。父に組み付いて応急治療所に引きおろしたのは、1等水兵で後に警視庁4課の刑事となり、柔道5段の選手となりました。小躯の父など吊り上げられるほどの大兵の男で、その後親しくなりましたが、退職後、糖尿病で悩んでいました。メタボリック糖尿病で、日本酒の飲みすぎだと皆にからかわれました。
 炊き出しは午後かなり早くから準備され、母、祖母、長姉、次姉たちも海岸近い農家で手を真っ赤にして握り飯を握っていました。「総員退去」が出されると、兵隊たちは飛渡之瀬海岸(ほんの2〜300mほど)めがけて泳ぎましたが、米機は残った爆弾を海中に投下、「内臓圧迫」で大勢が死にました。それで漁民たちが伝馬船を漕ぎ出して、救助しました。わたしは戦死者の間を縫って、足裏に姓名階級が記されているので、知り合いを捜し歩きましたが運動靴が血に染まり、しばらく黒ずんでいました。
 昨年、飛渡之瀬小学校のクラス会があると電話がありましたが、村の衆はわたしが村の小学校に通っていたとばかり思っていたようです。毎年のように「大淀慰霊祭」を開いてくださっているようで、一度は参列してお礼を申し上げなければと思っています。
[22908] 田口様、コメント有り難う存じます。
名前:中村孔治
日時:2006/11/18 15:59
私は海軍兵学校の76期です。お父上より大分後輩です。当時、我々はカッターの訓練等で、大淀や利根の近くまで行きその、戦う船であるにも関らず、芸術的ともいえる、スマートな艦の形に心を打たれました。さすが、大淀は連合艦隊の旗艦になっただけあって素晴しい軍艦であると存じました《利根も見事な艦でした)。
残念だったのは、来襲した米機の去った後で、防空壕から出て、両艦が黒煙を上げて燃えており、炎も見え、歯軋りをしたのを、今でも忘れません。また、沈没し横転している姿は、未だに眼の底に残っております。
両艦の負傷者の多くは、横穴式防空壕に収容されました。それは、兵学校の古鷹山寄りの、御殿山と言う丘に掘られたもので、生徒も時には作業に携わったこともあります。そこで、亡くなった方もいました。空襲で退避した際に、負傷者のうめき声を聞き、やがては自分達の運命であると、同期の生徒達と覚悟を決めていました。暑い時期であり負傷された方の苦痛は如何ばかりか計り知れないものがあります。
実は私は以前から、拙いながら小説のようなものを書き、戦争を知らない人達に、一人でもよいから見てもらおうと思っており、少しは書き進めております。
此処に掲載すべきか迷いましたが、メモの段階であるものを更に圧縮し田口艦長に関連した内容を【 】内に纏めました。
【大淀は利根と併せ、主砲14門、高角砲24門、機銃100余挺で、かなり強力、しかも充分に訓練を積み重ねて、昭和20年3月19日(大淀は直撃弾3発)以上の激しい米機の攻撃を予測し待ち受けていた。しかし、海軍だけで、新旧航空機5000機も、当時保有していたが、迫り来る本土決戦に備え、米機の空襲に邀撃機を一切出撃させなかった。
7月24日、来襲の米機は戦闘機がグラマン(F6F)、爆撃機はカーチス(SB2C)で、7波の攻撃は9時間余り、利根、大淀両艦とも火災を起こし、特に大淀は火災が激しく、艦の傾斜が増大して、甲板上の遺体が波に洗われそうだった。田口正一艦長は、転覆の危険を回避するために、英断で、左舷防水区画に、海水の注入を命じた。その結果、艦の傾斜は徐に復元し、心配された沈下度は予期した程でなかった。しかし、火災は益々猛威を振るい、艦内の深部にある火薬庫に接近しており、もし火が到達したならば、大爆発によって、艦は人間諸共、爆沈が必至であった。
田口艦長は、危険を顧みず、艦橋付近にまで迫った、火災の上方に当る、防空指揮所に立ち、全般の指揮を執った。江田島の男女住民が漁船に手押しポンプを積み、消火にあたった。勿論、旧式簡易の手押しポンプであって、効果は微々たるものであったが、大爆発の危険を顧みず、その勇敢な行為は偉とすべきものと思う。効果少なしとみた、応援隊は作業を、死傷者の運搬に切り替えた。日没後、婦人会は握り飯の炊き出しを行って、大淀、利根両艦の乗員は朝食後12時間で食事ができたのである。
苦闘の末、大淀の消火に成功したのは、二日後の7月26日の夕刻であった。
休息の暇を与えず、7月28日、再び4日前以上の大編隊が来襲した。利根の対空砲火の大半は健在であって、撃墜はするものの、短時間で、直撃弾・至近弾で死傷者百名以上。更に、左舷に傾斜し、弾丸の運搬機械の動作、照準、その他操作が困難となった。
大淀の防空指揮所の1・5メートルの測距儀の架台に上がると、視界は最高で防空指揮には絶好の場所である。しかし、極めて危険である。それを、顧みず田口艦長は、架台に上って指揮を執り、米機の攻撃の異様な威圧感から、「今日はヤル気だな」と直感した。
やがて、指揮所に烈風が襲った。直撃弾であった。転落した田口艦長の見たものは、将に地獄絵図(惨たらしさの詳細は割愛)。
艦長に突如大声を上げて、組み付いてきた者があった。振りほどき得ない程の強力。彼が言った「艦長が重傷であります!」と。「艦長は負傷しとらん。安心シロー」と大声で答えた。田口艦長が血達磨(死傷者から飛び散った血潮で)で応急員であった彼が、艦長を治療所へ拉致を考えたと見うる。危機の場での、艦長の人徳と応急員の心情が美しい。
この度は、火災は発生しなかった。しかし、死傷者は続出。米機の作戦であろう、右舷に集中して攻撃を受け、艦の転覆は必至となった。
艦長は「総員退去」を命じた。元気な乗員は一斉に江田島の岸に向けて泳ぎ去る。
艦長と数名の幹部(艦長の退去なければ動かずと)は残った。艦の傾斜は右75度、船体大破。・・以下割愛。】

<能に付いては、後日に>

[22897] 中村孔治様
名前:田口汎(梵音)
日時:2006/11/17 21:28
中村さん宛に、初めてこの意見版に書きます。広島原爆当時、中村さんは江田島の兵学校生徒さんだった由、父が飛渡之瀬沖に停泊していた巡洋艦「大淀」艦長でした。「利根」とともに73期〜75期の生徒さんは実戦を観戦された最初の機会だったはず。75期の吉田学海上自衛隊幕僚長とお合いしたとき、その話が出て「戦争の実態がどういうものか分かった。決して戦争はやってはならない」とおっしゃられたことを思い出します。

 それに「能」に関する記事に出て来る書籍はNHK出版のもので、わたしは同社の「編集総務=通常の出版社では総編集長」でしたので、余計、ご縁を感じました。元海軍士官は趣味として「謡」をたしなむ方が多く、幼児期によく稽古に連れてゆかれました。それが耳に残っていたのか、高校時代末期から学生時代に「観世銕之丞」さんの高弟に「能」を教わりました。

 10曲ほど上げたところで、「銕之丞家」に内弟子に上がる話が起こりましたが、自分としては「男ジテ」の観世元雅家や「女ジテ」なら梅若家に嗜好があり、結局、内弟子の話は断りました。何だか懐かしくて、つい余計なことを書いてしまいました。

 今、ローレン・モレ女史との対談を連載中です。時間がありましたら、ご一読ください。
[22895] 世阿弥の瀬戸内著を期待。
名前:中村孔治
日時:2006/11/17 10:00
先日、NHKのクローズアップ現代での、瀬戸内、国谷両女史の対談を視聴しました。
その場で、瀬戸内さんは、世阿弥に付いて書いていると言っておリ、非常に楽しみに存じます。
佐渡には三度訪れており、極最近亡くなった、本間君(海軍兵学校の同期生、同分隊で、起居・学習・訓練を共にし、広島原爆投下時は共に、六尺の水褌を締めつつ、閃光、ショックウェーブ、爆音に晒されました。15キロ弱距離があって無事)の生まれ故郷です。
世阿弥が佐渡に流されて、死去するまでの何年間は謎に満ちております。瀬戸内さんはどの様に書くか、興味しんしんです。
実は、私も世阿弥を死ぬまでに、書きたいと密かな計画を抱いておりました。
女性の瀬戸内さんとは多分、少々違ったものになるとは思いますが、兎に角、出版が待たれます。
[22815] 亀井貴也様、ご意見を頂きあり難う存じます。
名前:中村孔治
日時:2006/11/10 10:27
「能面は人間の表情を抑えた謂わば,死相であり、従って能を舞う人の芸によって喜怒哀楽等の感情や雰囲気が活きる」とのような文章を、戦後の活字に飢えていた頃、和辻哲郎著『面とペルソナ』で読んだ記憶があります。何れ読み返したく存じております。
本書上・下に採りあげられた141曲以外にも、素晴しいものが多いと存じます。
本の標題にある「ふるさと」ですが、日本人の心の古里が、すべての曲に、織り込まれていると思っています。
最近、和歌もそうですが、俳句にも暫らく遠のいておりました。昨年春より、何十年ぶりに俳句も作リ初めています。
従って此処では、他にも多くありますが、一曲だけ以下、採りあげます。
それは下巻の「姨捨」です。舞台は長野県の千曲市近くの姨捨山です。平安の昔から多くの歌人に詠まれていますが、能に関係の深い人では、定家貫之、西行が、姥捨山を歌に詠んでおります。
また、芭蕉翁面影塚には「おもかげや 姥ひとりなく 月の友」
宗祇句碑に「あひにあひぬ をばすて 山に 秋の月」があります。
先月、私はささやかな句会ですが、「姥尾根を 尾花折々 負われおリ」、「姨捨の 尾根をみおろす 蒼い月」の何れかを出そうとしましたが、止めてもっと暖める事に致しました。
特に、前の句は、負われて山に登り、捨てられる運命を承知の、老いた母が、息子の帰途の道しるべに、ススキで自分の手が傷つくのも厭わずに、折り続けてゆく情景を句にいたものです。此れは、母から子供の時に聞いた話です。
最近の日本は確かに昔より豊かで、文明の恩恵に浴しておりましょう。しかし、旧き日本の古里のよさ、親子、兄弟、友人や社会における暖かい人間関係は、特に最近になってその多くが、失われてしまったようです。
新しい、真に美しい日本を、待望する一人として、此れからも生き続ける心算です。
[22795] 能面
名前:亀井貴也
日時:2006/11/09 09:47
中村様

お話なされていたもの、読ませて頂きました。
「能」の話で僕が知るのは「能面」は顔を上げると笑い顔、うつむくと泣き顔になるというもの。

ひとつの能面で喜怒哀楽を見せる舞台を作り上げた先人の知恵は感服しますし、その物語性は政治性ある物語が内包されているのだと思います。

栄枯盛衰、諸行無常

先人の知恵を受け継ぎたいですね。
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